历史唯物主义的射程——现代人类学对马克思社会结构理论的发展

マルクスとエンゲルスの理論は同時代の人類学による経験的発見に立脚している。しかし、その時代では非資本主義社会を研究するための資料はまだ乏しく、参考になれる文献はそれほど多くない。[1]しかし、マリノフスキー(Bronislaw Kasper Malinowski)、ボアズ(Franz Boas)などの先駆者が現代人類学の研究方法を基礎づけた以来、非資本主義社会の社会形態への実証研究と方法論的反省は着実に蓄積されつつある。モルガンなどの人類学的発見に立脚する史的唯物論を批判的に検証する人類学的課題も可能または必要になりつつある。

ただ、よく誤解を招くことは、大方の「印象」と異なり、「生産手段が、物象化され、疎外された力として生産者に対立していないばあい」、マルクスとエンゲルスは「唯物論的弁証法の適用が妥当かどうかには慎重だったし、《血》の《自然的》紐帯にくらべて、経済的土台がはたして形成力として働くかについても細心の注意をはらっていたし、原古的な村落共同体の不変性も観察してもいた」。[2]人類学者サーリンズ(Marshall Sahlins)が指摘した通り、「部族社会が唯物論になじまない事例は、数多いが、マルクス・エンゲルスは、この問題をすでにはっきりとその著作で、先取りしていた」。[3]しかし、この指摘は彼らの後継者と名乗る者たちにも通用するとは限らない。[4]

事実、「生産諸関係に対する生産力」および「上部構造に対する経済的基礎」の「決定作用」という「唯物史観の公式」は今日でも絶大な影響力をもっている。史的唯物論への経済決定論的な解釈がこれほど広く世間に流布しているのは、一部「マルクス主義」者[5]と、経済合理主義(唯一主義)の信者たち[6]が根拠をあげずに己の信ずる「印象」を執拗にマルクスに押し付けることで生じた一種の大規模なマンデラ効果(Mandela Effect)といえよう。彼らの信ずる「唯物論」は、「諸社会形態を、技術と環境とのただの付帯現象(エピフェノメノン)と見て、直接的な因果性で説明したり、諸制度を社会的最適化の産物とみなすなんらかの経済的合理性によって説明したりする考え方のことである。こうした接近法は、サーリンズが<新しい唯物論>と呼んだ形態、つまり新機能主義的生態学と文化唯物論という形態を取って日々再生産されている。この両者とも、米国のほとんどの社会科学の特徴である、機能主義的・経験主義的イデオロギーに埋め込まれている」[7]。

メンケン(H·L·Mencken)の名言通り、「どんな複雑な問題でも、単純でかつわかりやすい解答がある――この解答が間違った解答だという欠点を気にしないであれば」。人類史において、さまざまな異なる社会の下部構造と上部構造の構造間関係には規則性があるかという極めて複雑な問題に対し、「経済下部構造が上部構造を決定する」という間違った解答は確かに「単純でかつわかりやすい」。この解答に固執している俗流唯物論は、上部構造と思われる諸機構、諸制度並びに諸関係の内容と形態ないしその変形を関数として、「その唯一外見上の諸機能」[8]とみなされた経済的要因を独立変数とみて、前者を後者に還元する。こうして、上部構造のあらゆる変化と差異を「経済システム」に還元する「機能主義的・経験主義的還元主義」が誕生した。まさにそのわかりやすさのゆえに、還元主義の解答は自己の歴史的正当性にこだわる一部の「社会主義」政権にとって都合がいい。マルクス本人の理論への懐疑や攻撃を招いたことは、彼らからして取るに足らない副作用にすぎない。[9]

こうして俗流唯物論の信奉者と共犯者たちはマルクスとエンゲルスの理論も「経済唯一主義」の一種だ、という印象を世間に植え付けることに成功した。本来、マルクスが導入した「生産」の視点は異なる社会構造間の相互関係を社会科学的に分析する際、極めて示唆深い論点を提供し、現代社会科学の発展に大きく貢献した。ただ、俗流唯物論の影響で、社会科学の経験研究での、マルクスの歴史観の柔軟的な応用が拒まれた。この障害物を取り除くことは社会科学にとっての喫緊な課題である。

幸い、同時代の人類学の経験的発見に立脚するマルクスとエンゲルスの理論的思考も、人類学の新しい発見と新しい論点への二人の開かれる態度も現代の人類学者に理論的親和性を感じさせた。彼らはマルクスの理論的枠組に長期的な関心を示している。マルクス、エンゲルスの理論的思考と現代人類学との関係、それが本章の出発点である。

新しく発見した経験的素材に基づき、現代の人類学者は史的唯物論の人類学的基礎を刷新し、その構造分析法を利用して非資本主義社会を分析するために、還元主義による史的唯物論への俗流化を克服しようと試みた。本章は史的唯物論を再構築しようとする人類学の試みを三つの部分に分けて紹介する。

第一節では、現代人類学の諸派の研究成果が紹介される。これらの研究による経済決定論批判は、非資本主義の「経済的基礎」と「上部構造」との間の複雑なあり方を掲示した。経済活動はさまざまな社会関係に埋め込まれている社会では、独立な「経済的領分」ないし「経済機能」というものが存在せず、同じ社会システムが複数の機能を併有していた。このような社会への史的唯物論の構造分析は、四つの挑戦を克服してからはじめて可能になる。それは同時に、史的唯物論を実証科学たらしめるための挑戦でもある。

第二節の議論はマルクスとエンゲルスのテキストを巡り、史的唯物論の実証科学的性格を再建する理論的可能性を検討する。テキストへの再訪により、史的唯物論が上部構造に対する経済的基礎の決定作用(函数あるいはプロジェクト関係)を規定せず、あくまで前者の変動に対する後者の推進作用および制約作用(連立方程式の関係)を強調したにすぎないことは確認された。マルクスとエンゲルスの理論方法のこうした開かれた特徴は、史的唯物論の再構築への現代人類学の出発点になる。

第三節では、人類学が見つかった新しい経験的事実の反省およびそれに基づく史的唯物論の再構築の試みが紹介される。この理論的実践は実証科学の要求に適応するための史的唯物論の自己調整とみなされる。本節は、これら理論的実践を実証科学の要求に応じて史的唯物論の「弾力性」(柔軟性)を広げる二つの試みと見ている。第一の試みは生産力―生産関係および基礎―上部構造の強い構造的因果性を維持するが、この強い構造的因果性の作用範囲を資本主義社会に限定する(威力を維持するために射程を限定)。第二の試みは原始的共同体の社会における各社会構造の間の構造的因果性を認めているが、この構造的因果性(エンゲルスのいう「歴史における最終的に規定的な要因」)を「負の因果性」と解釈し、社会構造を理解するための視点を制度(機構)の視点から機能的視点に転換する必要性を訴える(射程を広げるため威力を限定)。本節は採集―狩猟社会と定住社会における階級分化の度合いを比較することで、史的唯物論の有効射程を前資本主義に広げようとする「負の因果性」説の有効性を検証する。

以上の分析により、本章は史的唯物論の枠組は実証科学の範疇と両立し得ることを理論的に説明し、実証科学に適応する史的唯物論の自己調整の実践可能性を明らかにした。史的唯物論が「生産」視点から出発する柔軟性のある社会構造分析法であることを証明することで、それが第三部以後の史的分析に適合できるかという疑念も晴れただろう。

非資本主義社会の「下部構造」は経済的諸関係だろうか

俗流唯物論の悪影響により、マルクスとエンゲルスの理論は「経済決定論」の汚名に被された。この「経済決定論」(「還元主義」とも呼ばれている)に対する批判は四つの方向から提起されている:第一の方向はポランニー(Karl Polanyi)、サーリンズ(Marshall Sahlins)などの実質=実体主義者(Substantivists)の立場である。「経済」は社会に埋め込まれることで、他の諸システム(親族、政治あるいは宗教システムなど)をそこに「還元」する純粋な「経済的」領分はそもそも存在しないというのは彼らの主張である。第二の方向は構造主義者(レヴィ=ストロース(Levi Strauss)[10]、フォーテス(Meyer Fortes)、デュモン(Louis Dumont))や新モース主義者(ワイナー(Annette Weiner)、ストラザーン(Marilyn Strathern)など)の立場である。この立場の学者らは象徴と想像の役割を重視する。前資本主義社会における経済構造の道具的・価値中立的属性を前提に、総体的構造もしくは「概念図式」によって意義を与えられない限り、経済構造が「経済」の機能を発揮することはできないというのはこの方向の持論である。[11]第三の方向は機能主義学派の立場である。経済を社会有機体の一器官とみなすこの立場は、部分である器官の機能は総体としての有機体との関連においてのみ有意義であると考える。ちょうど肺の機能は同じ器官である心臓ではなく、肺と人間体の関係によって裏付けられると同様、社会有機体の一部である経済は社会有機体の他の部分(上部構造)を決定することはできない。第四の方向はゴドリエ(Maurice Godelier)[12]を代表とする新マルクス主義構造人類学(フランス学派経済人類学)者の立場である。この立場からみるかぎり、上部構造―下部構造の違いは機構的(institutional)なものではなく機能的(functional)なものである。「同時に生産関係、《下部構造》として機能しているばあいにかぎって、親族、宗教、政治が支配的なもの」[13]ということになる。

最初に経済決定論に挑んでいるのは実質主義者であった。20世纪60年代に形式主義者(Formalists)との論争において、「マルクス主義者」は新古典派経済学者と同様な過ち、すなわち「経済唯一主義(ソリブシズム)」を犯したとして、ポランニーはシステム(生産様式)の「経済的合理性」しか眼中にない「マルクス主義」を批判した。「経済生活は社会における社会的・政治的組織のなかに埋め込まれている」[14]かぎり、「経済的合理性」の概念自体は向こうである。たとえば、古代社会では本来、無秩序なバーターや経済的契約が部族的連帯を侵食する利得的で反社会的な行為として厳しく制限・禁止されていたが、地域的統治が出現するとき、「正義の泉である神王の活動をつうじて」バーターや経済的契約が利得のない、公正で法にかなった行為とみなされ、はじめて合法的・公開的に行われる。[15]このケースに「合理性」などが存在すれば、それは経済的合理性ではなく、経済的関係を支配している政治的―宗教的合理性であろう。

次の70年代を席巻したのは構造主義である。論争の中心はやがて「マルクス主義」と構造主義とのあいだに移った。イギリスでは、タレンシ社会における経済的関係と親族関係のどちらかが主であり従であるかを巡り、ウォースレィ(Peter Worsley)とフォーテス(Meyer Fortes)の間に激しい論争が行われた。タレ族のリニージ構造に特徴的な父と息子の間の強靭な「同一視(性)」関係をタレンシ族の形式的=技術的な生産活動に還元し、この種の「同一視(性)」関係の「客観的な」経済的意義を見出そうとするウォースレィ[16]に対し、タレ族の父と息子は協業生産をするから親子になったのではなく、親子だからこそ生産活動を行っているのだと、フォータスは鋭く指摘した。[17]

一方、フランスでは、構造主義者たちは批判の標的を社会の全体的意義体系を「経済的」動機 に矮小化する文化唯物論[18]に定めた。環境そのものから形式が生まれているわけではないとレヴィ=ストロースが指摘する。経済的行為は社会の全体の意義体系から自立していない限り、「それは、生産関係と生産目的のなかでの所与の意味づけ序列が、財の評価と資源の規定において、実現されたものにほかならない」[19]。だから、肝心なのは上―下部構造の不可分の本質であって、そのどちらかの優位性ではない。「マルキシズムは――マルクス自身はそうでなかったとしても――慣習的行動(プラチック)が直接的に《プラクシス》から出てくると考えることがあまりにも多すぎた。異論の余地のない下部構造の優位に異議を唱えるのではないけれども、私は、《プラクシス》と慣習的行動の間にはつねに媒介項があると信じている。その媒介項が概念の図式なのであって、その操作によって、互いに独立しては存在しえない物質と形態が、構造として、すなわち経験的でかつ解明可能な存在(entities――引用者)として実現されるのである」。[20]

論争の進展は政治経済学の基盤たる労働価値論にも波及した。デュモンをはじめ、構造主義者たちはソロモン諸島、モルッカ諸島およびパプアニューギニアで行われている規制された交換行動のなかで、交換の原則である価値の象徴的ヒエラルキーを発見した。交換行為はレールで走る電車のように同じ線路(階層)で繰り返し、他の線路に決して触れない。この階層は所与なものとして社会の象徴的価値体系によって与えられている。[21]階層が存在する限り、価値には量的違いの他に質的違いも存在する。だから量的投下労働価値論のように質的に異なる価値を同質の投下労働に還元することはできない。

象徴体系や概念図式が欠落していることで文化唯物論を批判する構造主義者と異なり、フランスの新マルクス主義人類学者たちは標的を文化唯物論の機能主義的・経験主義的側面に定めた。この立場の論者はある機構が現在果たしている社会機能とこの機構を誕生させた(経済的)合理性との不一致を強調する。

ハリスなどを代表とする文化唯物論者は東アジア・東南アジア社会を研究するとき、「まず官僚制国家の機能的必要性を主張し、ついで天水灌漑や氾濫灌漑を利用する諸地域でも、そうした国家が発生しえたという事実」をもって、官僚制は大規模灌漑の経済的必要性から生まれたと見ているが、「国家形態を伴わない集約的灌漑農耕の諸事例が存在することを度外視してみても、集権国家と大規模灌漑とが結びついている諸地域では、社会的階層が大規模灌漑に先行するものであることについて、広範な証拠が存在する」と、この立場の論者たちは批判する。[22]この批判はマックス・ウェーバーに対しても有効である。ウェーバーも文化唯物論者と同様、エジプトとメソポタミアの農業的水利官僚の基礎は経済構造にある[23]と見て、この推論をインドや中国まで広げて、(これらの国では)官僚階級の誕生の必然性は治水の必要から生まれる[24]と結論を下した。ただ、ウェーバーの還元主義的傾向は当時のドイツ歴史学派の特徴と言える。

以上のまとめにより、史的唯物論の実証科学的性格を回復するために直面しなければならない四つの挑戦は人類学によって示唆された。

  1. 経済的構造あるいは経済的機能が社会の全体構造から切り離されない非資本主義社会において、ある特定の社会的行為が経済的構造だと断言する合理性は何か。
  2. 経済的関係が他の関係を支配するのではなく、親族、政治、宗教関係が経済活動の前提であることを示した数多くのフィールドワーク研究の成果に、史的唯物論はどう整合的に説明すべきか。
  3. 同様または近似する技術的環境に置かれる社会がまったく異なる政治、宗教、親族体系を演繹してきた事実に、史的唯物論はどう整合的に説明すべきか。
  4. 制度の多様性を史的唯物論の枠組内で合理的に説明できるだろうか。

史的唯物論は、これらの理論的挑戦を整合的に解決することを通じて初めて、その社会構造理論としての活力が刺激され、己が経済現象の歴史的側面を分析する実証科学の任に堪えることを証明できる。この難題を解決するためにも、論争にかんする学説史の軋轢を収拾するためにも、われわれは史的唯物論に関するマルクス(彼は自分の理論的思想を唯物史観あるいは史的唯物論と呼んだことは一度もなかったが)とエンゲルスのテキストを振り返らなければならない。

第二節 「経済的下部構造」と「上部構造」の関係

「生産力が生産関係を決定する」や「経済的基礎が上部構造を決定する」といったテーゼは長年、唯物史観の教条として信奉されているが、驚くことに、この信条はマルクスとエンゲルスのテキストから直接に出たことは一度もない。俗流唯物論の信者が上部構造に対する基礎の「決定作用」を論証するとき、もっとも頻繁に引用した1859年の『経済学批判・序言』でのマルクスの記述[25]を例にしよう。

これらの生産諸関係の総体は、社会の経済的構造を形成する。これが実在の土台であり、その上に一つの法律的および政治的上部構造がそびえ立ち、そしてそれに一定の社会的諸意識形態が対応する。物質的生活の生産様式が、社会的、政治的および精神的生活過程一般を制約する。人間の意識が彼らの存在を規定するのではなく、彼らの社会的存在が彼らの意識を規定するのである。社会の物質的生産諸力は、その発展のある段階で、それらがそれまでその内部で運動してきた既存の生産諸関係と、あるいはそれの法律的表現にすぎないものである所有諸関係と矛盾するようになる。これらの諸関係は、生産諸力の発展諸形態からその桎梏に一変する。そのときに社会革命の時期が始まる。経済的基礎の変化とともに、巨大な上部構造全体が、あるいは徐々に、あるいは急激にくつがえる。

テキストを機械的に捉えることをやめれば、マルクスがここで解決しようとしている課題は社会の物質的要素と制度的・意識的要素、あるいは社会の経済的機能と他の諸機能のどちらが主、どちらが従かを決めることではない。ここの課題は社会変革の原因と条件、および社会の諸構造がその変化の過程に対してそれぞれが果たした独自な機能を明らかにすることであり、そのために必要なのは様々な概念範疇の明確化である。

「序言」で用いられている「生産諸関係」という範疇は「人間が、彼らの生活の社会的生産において(取り結ぶ――引用者加筆)、一定の、必然的な、彼らの意志から独立した諸関係」であって、それは「彼らの物質的生産諸力の一定の発展段階に対応する」。同時に、「これらの生産諸関係の総体は、社会の経済的構造を形成する。」[26]ここでいう「社会の経済的構造」(die ökonomische Struktur der Gesellschaft)と、続いて用いられている「経済的基礎」(die ökonomischen Grundlage)が同義であれば、経済的基礎は社会的生産諸関係の総和になる。「経済的基礎」という範疇もしばしば「下部構造」と呼ばれる。この別名は「上部構造」(der Überbau)の概念との対応関係から得られるものだと合理的に推測できる。構造上、礎石と上屋との間に存在するのは何らかの決定関係ではなく、ある制約関係でほかない。

一方、マルクスの建築力学的比喩(「上部構造・上屋」「下部構造・基礎」)から機械的決定論のテーゼ、すなわち基礎が上屋を決定するテーゼを得られない。事実、礎石の硬さ、深さ、それの周囲の地質環境などは建物の高さや力学的形態などを「制約する(bedingt)」。しかし、制約された範囲内で建物の高さ、形態、色、装飾ないしその内部の階層構造は自由に調節できる。したがって、下部構造である礎石が何かを決定したというのであれば、それは上部構造の諸要素の限度(限界)でしかない。こういう風に理解するかぎり、「歴史において最終的に規定的な要因」を「経済的諸関係」に捉える。比喩から本体に戻ろう。「物質的生活の生産様式」と人間の政治的・精神的生活について、マルクスは「物質的生活の生産様式(Produktionsweise des materiellen Lebens)が、社会的、政治的および精神的生活過程一般を制約する」を述べるのに留まる。すなわち、両者の関係についてマルクスが強調したのは論理的に、前者が後者の必要条件であるが、前者が後者の十分条件であるまでは言っていない。[27]

他方、マルクスの理論的思考の史的次元に立ち戻り、静的均衡の視点から脱却して歴史の変革のダイナミズムを分析すれば、必然的に社会構造のあらゆる変動(運動)の背後の動因(運動が起きる原因)に注目するだろう。マルクスの場合、その動因は社会的物質的生産諸力の発展である。「それら[社会的物質的生産諸力の発展]がそれまでその内部で運動してきた既存の生産諸関係と、あるいはそれの法律的表現にすぎないものである所有諸関係と矛盾するようになる」。[28]

「社会の物質的生産諸力」(die materiellen Produktivkräfte der Gesellschaft)を力学的意味での力(Kraft)と想定すれば、それが生産諸関係(die Produktionsverhältnissen)——それらの総体は社会の経済的構造=経済的基礎(die Grundlage)を形成する——に作用する際、必然的に、後者の力学的均衡が崩れて動き始める。[29]結果的に、理想的な剛性物体[30]でない「社会建物」の各階層も「あるいは徐々に、あるいは急激にくつがえる」であろう。

事態を別の角度からみるといっそう明瞭になるだろう。この場合、われわれの「社会建物」が「社会鉄道」となり、社会の経済的機能を果たしているのは機関車であって、上部構造の諸機能を後部の車両とみなせば、人間と自然との物質代謝は蒸気あるいは電気動力部とレールによる制限との関係になろう。そうなれば必然的に、エンジンの動力あるいはレールの長さや方向を変更すれば、それが機関車の既存の力学的状態と矛盾し、運動がはじまる。この機関車の運動につれて、他の車両も牽引され徐々(後部の車両)にあるいは急激に(先鋒の車両)動き始めるわけである。

要するに、マルクスは上部構造と下部構造の比喩を使って示したい論点は二つ:第一に、下部構造である経済的基礎が上部構造にとっての制約である。第二に、変革が生じるとき、経済的基礎の変革は上部構造が徐々に動き始めるの動因(これを独立変数と関数との関係に解釈してはならない)である。「それ以上のことをマルクスも私も今までに主張したことはありません」。[31]

残念ながら、マルクスに対する「経済決定論」あるいは「還元主義」的歪曲は、少なくともエンゲルスの時代から氾濫している。これに対し、エンゲルスは「後輩たちが時として過度に経済的側面に比重をおくのには、マルクスと私自身で責任をとらねばならぬ点も一部にはあります。私たちは反対者たちにたいして、彼らが否認するこの主要原理を強調しなければならず、そこで、相互作用に関与している他の諸要因をそれなりに評価するだけの時間と場所と機会が必ずしもないということになったのです。しかしひとたび歴史的な一段階の叙述、すなわち実際の適用ということになったときには、ただちに事情はかわり、その場合には思い違いということはありませんでした。しかし残念ながら、主要な諸命題をわがものにすれば、すぐさま新しい理論を理解しおえたと思い、難なくこれをあつかえるものと信じることがあまりにも多すぎますが、ところがこれはいつもそうとはかぎらぬものです。そしてこの非難を、私は近年の《マルクス主義者》の少なからぬ者たちにたいしてあびせないわけにはいきませんし、じっさいまたみごとな代物にお目にかかりもします」[32]と、反省の弁を述べた。

マルクスとエンゲルスは「歴史において最終的に規定的な要因」を「現実生活の生産と再生産」と考えており、「それ以上のこと」は「ありません」と断言した。[33]しかし、「現実生活の生産と再生産」を「社会における経済的構造(機構)」あるいは「経済的基礎」として解釈できるだろうか?

答えは否である。そもそも、この考え方は二重の意味で過ちを犯している。

第一、歴史を規定する要因を追求する課題は結局、社会的構成体の運動と変革の動因を求めることに帰結すべきであって、社会的構成体の内部構造において、どの構造が支配的かという課題とは無関係である。「ヨーゼフ・ブロッホへの手紙」においても、『家族・私有財産・国家の起源』においても、エンゲルスが明らかにしているのは「経済的要因」と「上部構造のさまざまな諸要因」が「歴史的な諸闘争の経過」においての異なる役割であって、「経済的要因」と「上部構造のさまざまな諸要因」の二者間の関係ではない。

第二、経済的要因はそもそも唯一の決定因ではない。「もしだれかがこれを歪曲して、経済的要因(das ökonomische Moment)が唯一の規定的な(einzig bestimmende)ものであるとするならば、さきの命題を中味のない、抽象的な、ばかげた空文句にかえることになります」[34]。人々は特定の社会的歴史的条件のもとで歴史を作り出している。経済的要因はさまざまな社会的歴史的条件の一つに過ぎない。言い換えれば、経済的要因が「決定」あるいは「規定」しうるのは歴史の一面でしかない。[35]「人間は、自分で自分の歴史をつくる。しかし、人間は、自由自在に、自分でかってに選んだ事情のもとで歴史をつくるのではなくて、あるがままの、与えられた、過去からうけついだ事情のもとでつくるのである。あらゆる死んだ世代の伝統が、生きている人間の頭のうえに夢魔のようにのしかかっている」[36]。

むしろ「現実生活の生産と再生産」は「たんに人間の肉体的存在の再生産のためだけではなくて《規定された生活様式》の再生産のためにもあるのだから、文化的志向性の領域に属している」[37]ともいえる。たとえば、エンゲルスは「唯物論的な見解によれば、歴史を究極において規定する要因は、直接の生命[38](das unmittelbaren Leben)の生産と再生産とである。しかし、これは、それ自体さらに二種類のものからなっている。一方では、生活資料の生産、すなわち衣食住の諸対象とそれに必要な道具との生産、他方では、人間そのものの生産、すなわち種の繁殖がそれである。ある特定の歴史的時代に、ある特定の国の人間がそのもとで生活をいとなむ社会的諸制度は、二種類の生産によって、すなわち、一方では労働の、他方では家族の発展段階によって、制約される」[39]と述べている。マルクスも「このような[前資本主義社会の]労働の目的とするところは、価値の創造ではなくて……個々の所有者とその家族、ならびに共同団体全体(Gesamtgemeindewesen)を維持することがその目的である」を指摘している。[40]

ここまでの考察を念頭に、前の節で提起した「四つの挑戦」をもう一度見よう。テキストに現われているマルクスとエンゲルスの精神は実証科学の基礎と両立しえるだろうか。

第一と第二の挑戦に対し、原始的共同体社会において自立化していない諸構造に明確な社会機能に当てはめることはできないことや、異なる社会的条件のもとでは支配的役割を演じる構造も異なる事実を、マルクスとエンゲルスははっきりと認識している。たとえば、マルクスは「土地所有が支配しているすべての形態では、自然関連がなお優勢である」[41]と述べ、エンゲルスも「労働がまだ未発達であればあるほど、労働の生産物の量が、したがってまた社会の富が乏しければ乏しいほど、社会制度はますます圧倒的に血縁の紐帯に支配されるものとして現われる」[42]という認識を示している。

第三と第四の挑戦について、少なくとも封建的生産様式から資本主義的生産様式への移行に複数な経路を指摘したマルクスとエンゲルスは、歴史発展の多様性を意識している。[43]しかし、彼らはこの多様性の原因を明言していない。代わりに、サーリンズはそこに「唯物論的な歴史把握の自然化」[44]を感じている。この二つの挑戦を克服するには、マルクスとエンゲルスが立ち上げた史的唯物論の自己調整と適応を、理論的実践において考察しなければならない。さしあたり、方向は二つある。

非資本主義社会への、とりわけその社会的機能と社会の構造との間の関係への史的唯物論の適応性を考察する際、マルクス主義構造人類学者たちの助力が必要である。一方、社会的イデオロギーとしての史的唯物論はどのような社会的存在を表しているかを理解するために、ルカーチ(György Lukács)の記述は不可欠である。

第三節 前資本主義社会における史的唯物論の射程

資本主義社会の自己認識の道具としての史的唯物論

ルカーチは史的唯物論がまず何よりも一種の「社会的イデオロギー」だとみている。「古典的な形態における史的唯物論(遺憾ながら、それは俗流化され、凡俗の意識のなかで見落とされてしまった)は、資本主義社会の自己認識を意味する……したがって、史的唯物論は、まずさしあたり、ブルジョア社会とその経済的構造の理論なのである」[45]。「人間の意識が彼らの存在を規定するのではなく、彼らの社会的存在が彼らの意識を規定するのである」というテーゼが正しいとすれば、史的唯物論の生誕は資本主義的生産関係に即して理解されねばならない。

したがってルカーチは、史的唯物論の真理性を「ある特定の社会秩序および生産秩序の内部における真理性」として、「いわゆるイデオロギー的構成体のすべては経済的関係の諸機能を表現している、という史的唯物論の諸説の正しさを前提とするならば、史的唯物論自体もまた(闘争するプロレタリアートのイデオロギーとして)、同じように、このようなイデオロギーの一つであり、資本主義社会の一つの機能にほかならない」[46]と推論する。

ここで留意すべきは、史的唯物論の生誕の必然性から必ずしもそれが現在もなお有効という必要性に類推できるとは限らない。あるカテゴリーの発生の歴史性(そのカテゴリーを誕生させるには特定な歴史的条件が必要)とあるものの有効性の歴史性(そのカテゴリーが機能するためには特定な歴史的条件が必要)との間に、ルカーチの論理的断絶(飛躍)がみられる。この断絶は第二次世界大戦後、ヨーロッパの社会科学を席巻した構造主義がもたらした結果と言えよう。事実、史的唯物論の有効性を考察する際にルカーチが用いた視点は構造主義のそれと類似している。たとえばルカーチは「しかし、もし史的唯物論を資本主義以前の時代に適用するならば、それが資本主義を批判した場合にはけっして現れてこなかったような、きわめて本質的かつ重要な、ある方法論的な困難が目につくことになろう」。その方法論的な困難をルカーチは「文明の時代とそれに先行する時代との構造的な相違のなかに」あると見ている。[47]

この「構造的な相違」は、資本主義と前資本主義の社会の諸機能が自立化しているかどうか、または社会の諸機能は特定な社会システムあるいは社会機構の独自な役割として現われているかどうか、に求められる。「資本主義以前の社会においては、一方では、経済的諸過程の個々の契機(たとえば、利子を生む資本や財の生産そのものといったもの)は、相互にまったく抽象的に分離したままであって、直接的にも、また社会的意識に高められた形においても、相互作用をおこなうことはない。だが、他方では、これらの諸契機は、――こうした社会構造の内部において――(たとえば、賦役農場での手工業と農業とか、インドの農奴制における租税と地代などのように)相互にも、また経済的諸過程の経済外的諸契機にも、あらゆる点で分離しがたく結びつけられているの」であって、それに対し「資本主義においては、社会構造のあらゆる契機が、相互に弁証法的な相互作用をおこなっている。これらの諸契機が見かけの上で相互に自立的であり、自動的な諸体系をなし、独自の法則性という物神崇拝的な外観を呈する」のである[48]。

なるほど、『資本論』でマルクスも、自身の理論的図式に「資本主義的生産様式の諸法則が純粋に展開されるということが前提される」と付け加えて、「現実にあるものは、いつでもただ近似だけである」と認識している。[49]要するに、史的唯物論の有効性は資本主義的諸法則の完全なる貫徹によって担保される。「経済の諸法則が、一方では社会全体を支配しながら、他方ではその純粋に経済的な能力によって、したがってまた経済外的な諸要因の助けをかりることなしに《純粋な自然法則》として自己を貫徹しうる」。[50]

反対に、「このことは、けっして次の社会の到来を、すなわちその社会構造の本質にしたがって、他の諸カテゴリーや他の真理性諸連関が妥当するような社会が到来することを、排除するものではない」[51]。たとえば、タキトゥスのゲルマン人とアメリカの銅色人との類似性を着目しているエンゲルスからしても、彼らの「生産様式があまりにも根本的に違っているだけに、いっそう驚くべきものだ」と驚嘆した。「このことはまさに、この段階においては生産の仕方は古い血縁の紐帯や種族内における性(sexus)の古い相互的共有制の分解の程度ほど決定的ではない、ということを証明している」[52]というエンゲルスの感想を聞いた経済決定論者は、どういう風に思うだろう。

このことを背景に、ルカーチは史的唯物論の有効の条件を明らかにした。「こうした量的な区別(多様な社会的構成物への《経済的構造》の直接的な影響と媒介された影響との区別――引用者)というものは、資本主義の観点からみれば、社会の組織化が資本主義体制の方向にたんに量的に接近していくことにほかならない。しかし、資本主義以前の社会が現実にどのような性質のものであったかを認識しようとする立場からみれば、こうした量的な段階区分は質的な区別を意味するものであって、それは、社会全体の枠のなかで、資本主義とはまったく異なったカテゴリー体系が支配していることとして、または個々の部分領域がまったく異なった機能をもつこととして、認識されるのである。純粋に経済的にさえも、質的に新しい合法則性が生じてくる。しかも、たんに適用される素材の多様性に応じて法則を変容するという意味においてだけではなしに、異なった社会的環境においては異なった法則性が支配するという意味において、ある特定の法則類型の妥当性はまったく特定の社会的な前提条件に結びつけられているという意味において、そうなのである」。[53]

この考え方はギフト・エコノミーに関するモースやワイナーの発見を想起させる。彼らは「価値」の質的構造的差異に気づき、量的違いしか取り上げない政治経済学者にくぎを刺した。[54]

結論として、前資本主義社会と資本主義社会との構造的差異により[55]、「史的唯物論というものは、かならずしも資本主義的発展の社会構成体に適用される場合と同じような仕方で、資本主義以前の社会構成体にも適用されうるものではない。……そして、このことが、史的唯物論を古い社会に適用する場合には、それを十九世紀の社会的変化に適用する場合よりも、いっそう慎重にしなければならないのはなぜか、ということの理由なのである」。[56]

逆に言えば、史的唯物論の構造的因果性を最大限に発揮する条件は資本主義社会そのものにある。

19世紀以降の(資本主義的)社会に対する史的唯物論の構造的分析の有効性は認められるが、前資本主義社会においても同じような有効性があるかどうかは、分析対象の客観的な状況次第である。

機能のヒエラルキーと制度のヒエラルキー

ルカーチと異なり、人類学者であるゴドリエは「ただ単に経済的な活動にすぎない労働は、もっとも古い生産様式のなかには存在しない」ことを「マルクスが十分に認識していた」、したがって、史的唯物論を前資本主義社会に応用する概念規定上の障害はそもそも存在しないと考えている。ただし、そのためには生産関係の含意を再解釈する必要がある。なぜなら、「親族諸関係は、共同体での権力の政治的諸機能、祖先崇拝という宗教的機能、伝統および価値の教育と伝承の機能というイデオロギー的諸機能をはたすとともに、また一方では生産諸関係の諸要素、下部構造の諸要素としての機能をもはたしている。それゆえ、親族諸関係は多くの機能、多くの規定をもっており、この複数性こそが、それらに、社会生活における支配的役割をあたえているのである」[57]。

ゴドリエの試みに光を当てたのが構造主義である。マルクス主義=構造主義論争は実は思いもよらない化学反応を起こした。その一つはブローデル派の経済史理論の影響をうけつつ、史的唯物論を中世経済に用いる世界システム論で、代表者はウォーラーステイン(Immanuel Maurice Wallerstein)である。もう一つはここまで対立してきた構造主義とマルクス主義両社を調停しようとしている新マルクス主義人類学で、代表はゴドリエ、ブロック(Maurice Bloch)やメイヤスー(Claude Meillassoux)などである。

ゴドリエは、前資本主義社会に関するマルクスとエンゲルスの分析がきわめて限られた材料に基づいた弱点を意識し、より発展した人類学の知見と理論をもって大胆にマルクス主義と構造理論の結合を試みた[58]。この試みの最重要な一歩は言うまでもなく、史的唯物論の再構築である。

民族誌の整理およびフィールドワークの経験に基づくゴドリエは、絶対的だと考えられていた「真理」に誤謬が伴われていることを指摘した。「人間の諸集団と諸個人の総体をひとつの「社会」にする社会関係は、親族関係ではないし、経済関係でもない。それは、西洋人が「政治―宗教的」と形容する関係」である。また、「あらゆる社会関係は、どんなに物理的なものであれ「想像的核」を含んでいる。それは社会関係の内在的構成要素であり、単なるイデオロギー的反映ではない。この「想像的核」は「象徴的実践」によって稼働される(上演される)」。[59]

パプアニューギニアの部族社会(とりわけバルヤ社会)に対する観察を通じて、ゴドリエは、「このタイプの社会を構成する諸集団や諸個人のあいだの経済的交換や経済活動によって生まれる物質的・社会的依存の絆が、社会のすべての構成集団やすべての構成員におよぶことは決してない」[60]ことを気づき、「親族関係にしても経済活動にしても、社会がそのメンバーや近隣の領土集団からみてひとつの全体として形成され、存在する基盤にはおそらくなりえない」[61]ことを指摘した。反対に、イニシエーションのとき、「各リネージは、イニシエーション儀式という枠組のなかで、労働とその成果によって全体の再生産に貢献したのである」[62]。

更なる観察および近隣の部族社会との比較が彼を次の結論に導いた。「さまざまな起源をもち、最初は敵対していた複数の人間集団をひとつの全体に統合し、この全体の再生産を保証したのは政治―宗教関係であった。……そしてこの(私たちには)想像的表象は、「神々の仕事」の儀礼の一年のサイクルを形成する象徴的実践の作動によって、現実の社会関係の源泉と存在理由になったのである」[63]。すなわち、バルヤ社会を近隣のティピコスなどの社会から区別している「集団間の相違」は親族関係とその間で行われている女性交換でも、経済的関係でもなく、政治的・宗教的制度の違いである。[64]

この推論はインド社会にも適用できるかもしれない。「インドとともに私たちが関係しているのは、すべての社会集団がみずからの再生産のために、農業・手工業生産に従事するカーストに物質的かつ社会的に依存している社会である。しかし、またしても、経済関係が全社会集団に共通の物質的基盤をつくり出してはいるが(バルヤもティコピアもそうではなかった)、カースト体系を生み出したのは経済関係ではない。カーストこそが、つまり社会の政治的・宗教的組織こそが、経済活動に物質的内容と社会的・宗教的な形態と次元を与えたのである」[65]。反対に、宗教的・政治的機構としてのカーストは特定な経済活動を決定的に制限することもある。たとえば、カースト制度は同職組合を無効化する。その結果、インドの歴史では自由な都市ツンフトや、ツンフトに基づく分業が見られない。[66]

これらの事例の存在はゴドリエに史的唯物論を修正してその適用範囲を拡大させる必要性を感じさせた。彼の試みはバルヤでのフィールドワークに赴く前に発表された著作、『経済における合理性と非合理性』の付論「機能主義・構造主義・マルクス主義」のなかで説明された。問題の中心は「幾多の原始社会のなかでは親族関係が社会組織を支配するという事実(ラドクリフ=ブラウン、エヴァンス・プリチャード)、あるいは、たとえば宗教的諸関係がインド社会を支配してひとびとを純粋と不純のイデオロギーによってカーストに階序化するように思われる事実(ルイ・デュモン)と、マルクスの仮説とをどうして和解させることができるのか」[67]にある。その決着はごドリエの代表作『観念と物質』に反映されている。[68]

非資本主義社会における機構は一般に複数の機能を有し、同じ社会機能は同時に複数の社会的機構によって維持されていることを考慮すれば、変動しやすい不安定な機構に着目するより、社会機能に着目する方がより確実だろう。「生産関係(つまり、生産力から切り離された下部構造)と他の社会関係(上部構造)との区別は、機能的な区別であって一つの例外は別として、制度的な区別ではない」[69]。だから、第一歩は生産関係=経済基礎と上部構造の含意を再解釈し、生産関係あるいは下部構造の範疇を機能的に再規定することから出発する。「生産関係とは、以下のような三機能を、どれかあるいは全部ひきうける、ともかく人々のあいだの関係だということが明らかとなったのである。すなわち、資源と生産条件のコントロールに立ち入る社会形態を規定すること、労働過程の展開を組織化し、この過程のあいだに社会成員を配置すること、個人的ないし集団的労働生産物の流通と再分配の社会形態を規定すること、この三機能がそれにほかならない」[70]。そして、「ある社会関係が、同時に社会的生産関係として、自然の物質的領有過程の枠組として、社会的支柱として機能するとき、その社会関係が支配する(dominate)」。[71]

要するに、生産手段の領有、労働過程の組織、労働生産物の分配と再分配という機能的条件を満たせば、親族制度であれ、宗教や政治制度であれ、社会の「下部構造」たりうる。「社会によっては、親族関係(オーストラリア原住民)、政治関係(西紀前五世紀のアテナイ)、さらに政治=宗教的関係(古代エジプト)が、同時に生産関係としても機能することが明らかにできた」。[72]

生産関係の機能主義的規定が与えられた以上、構造機能主義は次の問題を取り組める。すなわち、前資本主義社会における社会の物質的生産諸力と社会の上部構造の間に何らかの「構造的因果性」が存在するかどうか、または歴史発展の多様性をどう説明するか、という問題である。構造機能主義からの回答は「負の因果性」仮設である。

生産力は生産関係の原因ではない。……生産関係は技術によって生み出されはしない。歴史的発展過程は、技術と生産関係とのあいだの関係に依存する。……生産力の発展レヴェルは、《最終審級において》決定的である。というのは、それが、生産関係の可能なヴァリエーションに、外的制限を課すからである。このことを因果性と呼びうるとしても、なにが生じるべきかではなく、なにが生じえないかを決定するものであるため、負の因果性でしかない。[73]

一つの例をあげることを許されるであれば、「ある種の社会的生産関係と、それに照応する交換システムとは、技術的生産性が許容しうる範囲内で集権化と階層化との発展を促すような構造的諸特性を持つ。この意味で、水利農耕は、絶対的・相対的な剰余が非生産階級によって増大・領有されうるかぎりでの、階層化と管理との未曽有の発展を可能にしたのである。以前はランク化されていただけか、最小限にしか階層化されていたにすぎない社会は、経済の生産的土台の拡張によって、階層化の度合いを増やすことができる」[74]。

この場合、「負の因果性」は下記のように作用する:「生産システムは、交換構造が生み出す階層化を完成するに足りるほど、充分な剰余を作りえない」とき、「反乱が発生する」。この反乱は「発展を止めさせるだけでなく、平等主義的形態を再建もする」[75]。逆に、「カチン族の住む高原地域において、翡翠鉱山のある地域や、交易路への直接的支配が可能な地域では、あるいは、カチン族が肥沃なアッサム平原に移住する場合にも、相対的に安定しているように思える「アジア的」タイプの社会の発展を見い出す」[76]。要するに、剰余生産物の絶対的・相対的量は階層化の限度を決める。

カチン族の事例と類似するケースも存在する。採集―狩猟社会の住民にとって、移動の自由を可能な限り確保し、自然の再生産能力を損なわない程度で食糧を採集することがもっとも合理的な行動である。この際、富の蓄積は移動の負担となり、望ましくないものと思われる。[77]たとえば、移動の自由を確保するため、ブッシュマン人(the Bushmens)がほぼすべての身回り品を人類学者に贈与した。[78]ムルジン族(the Murngin)のところでは、価値は希少性や投下労働の量によって決められるのではなく、体積・重要と運搬可能性によって図られる。体積・重量が小さければ小さいほど、そのものの価値が大きい。[79]これらの社会では階層化の度合いが非常に低く、近くにいる定住社会――農耕社会であろうか遊牧社会であろうか――よりもはるかに低い。すなわち、剰余生産物の生産・蓄積の度合いが社会の階層化に制限を課す「負の因果性」は広範に見られる。合理的な推論として、剰余生産物の生産・蓄積能力の低い社会は不生産的階級を育てられず、したがって成熟した商人階級を誕生させ、都市と農村との分業を誕生させることはできない。

この意味において、すなわち生産力や生産関係が許容する範囲内でのみ、社会の変革が可能である。ちょうど生物種に対する自然の選択圧[80]のように、社会の変革のさまざまな可能性に対し、生産力と生産関係も「選択圧」の役割を果たした。この見解は「経済学批判・序言」でのマルクスの指摘に合致する。

結語

20世紀に入り、資本主義社会への分析で光彩を放つ史的唯物論は前資本主義社会を研究する際、思いもよらない挫折に出くわした。本章は現代人類学の諸派による俗流唯物論への批判をまとめ、史的唯物論を前資本主義社会への分析に応用する際に直面しなければならない四つの挑戦を明らかにした。

しかし、史的唯物論の射程を拡張する努力は絶えず行われている。本章はその努力を二つの方向に整理した。ブダペスト学派(ルカーチとその弟子であるヘラー(Agnes Heller)など)が代表する第一の方向は経済的基礎と上部構造、および社会の物質的生産諸力と生産的諸関係との強い構造的因果性を保ちながら、その有効範囲を資本主義社会に限定する。この方向は人類学の実証研究に指摘される、前資本主義社会と資本主義社会との構造的差異を意識し、両者の間に線引きを引いた。史的唯物論の有効性を最大限に発揮できる条件を明らかにしたこの方向は、現代資本主義社会のメカニズムの解明を目指すわれわれにとって、決して無意味なことではない。

反対の方向に進んでいるのは新マルクス主義構造人類学(フランス学派)である。原始的共同体に対する史的唯物論の構造分析の有効性をある程度認めるこの学派は、マルクスとエンゲルスの「歴史において最終的に規定的な要因」を「負の因果性」と解釈したうえで、制度(機構)的視角から機能的視角への転換を訴え、二重の意味で史的唯物論の構造的因果性を弱めた。すなわち、前資本主義社会と資本主義社会との構造的差異を強調するよりも、その共通性を意識する方が生産的とうことである。この方法は史的唯物論の適用範囲は人類史全般に拡大するとともに、非資本主義社会に対する研究が資本主義社会の論理や法則を理解する鍵となる可能性を示した。

第二節で行われた史的唯物論の方法論と理論的実践にかんするマルクスとエンゲルスのテキスト分析を合わせて、本章は上記二つの方向どちらもマルクスやエンゲルスのテーゼへの否定、史的唯物論への再構築であることを証明した。したがって、この二つの方向はいずれも実証科学の基準に向ける史的唯物論の自己改善とみなされるべきである。とりわけ第二の方向が提起した「負の因果性」仮設は本書が意識しているいくつかの課題、たとえば再版奴隷制の原因、家内工業とプロト工業化の歴史的意義などの課題の解決に光を当てた。史的唯物論の射程を非資本主義社会に拡大することで、経済史の重大な課題を歴史学から経済学批判の枠組に取り入れる扉も開かれた。この意味で、本章は第三部以後の考察の出発点といえよう。

Author: ECNU-51265903094
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